大内の史跡めぐりの旅、後半です!
~その⑥ 四つ足門~
町指定の有形文化財に登録されていますこの四つ足門。目黒さんのお宅にあるもので、
四つ足門は特に家柄のある者に限って造ることを許されたそうです。
門は土台の石にこの足が乗っかっているだけなのだそうです。この門については
”伊達氏と相馬氏とが争った時、伊達政宗が目黒家を宿とし、その為に許された
門であるとも言われているが、それらを証明するような書類は残っていない”と
安永風土記には記されています。
~その⑦ 冥護山館跡~
伊達氏と相馬氏との争いの際に作られた館だそうです。周囲の切り立った崖を
そのまま利用した天然の要塞として重要な拠点となっていたそうです。
この冥護山館跡の山には現在は墓地がありますが、冥護山の冥の字と
墓地というこの場所から冥土という言葉を連想するのは考えすぎでしょうか?
~その⑧ 天王社~
大内の井手地区にあります八重垣神社が天王社とも呼ばれています。
この神社には神仏習合の名残の鐘楼が残っています。お話はだいぶ
聞き逃してしまったので詳しい説明ができずスミマセン。ちなみにこの伊手という
地区は朝から晩までお日様の日差しのあるとても住みやすい場所です。
丸森町内にはこれほどの場所はないそうで、昔から裕福な方が住んでいた土地だとか。
~その⑨ 諏訪神社~
こちらも町指定の有形文化財となっています。金山邑主の中島氏が伊達政宗に
従って、大阪夏の陣に出陣した帰りに信州諏訪神社から分霊してこの地に祀った
中島氏の守り社と言われています。
拝殿の裏にある本殿の高欄の彫り物は素晴らしいものと評価されていますが、
一部痛みがあることから修復が検討されているそうです。
~その⑩ 七夕神社~
大内の七夕地区にあります七夕神社。七夕という地名は全国でも珍しいそうです。
こちらの神社は個人のお宅の目の前を通ることになるので、ご覧になる際には
その旨をお声がけしてください。
こちらの七夕は中国から伝わった民話にある棚機女(たなばたつめ)の由来と
考えられているそうです。「棚機女」とは織物を作る手動の機械を扱う女性のことで、
古来よりこのあたりは養蚕や機織りが盛んだったそうです。七夕という地名がつくのも
なるほどとうなずけます。
大内の七夕は8月6日の夜に麦で馬を作って門口につないでおいたそうです。
次の日の8月7日はお盆の始まりで、これが日本古来の七夕の形と鈴木悦郎さんから
お話いただきました。
他にもお馴染みの牽牛と織女の言い伝えもあり、この七夕神社と先ほどの
天王社(牛頭天皇)の間に流れる川は天王川(伊手川)と呼ばれ、天ノ川と
考えられています。とてもロマンチックな言い伝えのたくさん残るこの七夕神社で
今回の大内史跡めぐりは終了となりました。
半日だけの参加でこのボリュームに驚きですが、まだまだ大内地区や他の地区には
見どころがたくさんあります。鈴木悦郎さんのように詳しくガイドしていただける
方との機会がある時は、またとない機会なのでぜひご参加ください!
@まと